鹿児島市御楼門(ごろうもん)復元プロジェクトに丸久建設㈱も参加決定!

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皆様、突然ではありますが鹿児島市の御楼門(ごろうもん)ってご存知ですか?

私は今年で39歳になるのですが、鹿児島県人として半年前(2017.8)まで知りませんでした。
そしてなぜ、今になってなのかと言いますと。
御楼門復元工事の施工業者に弊社「丸久建設株式会社」がJV(特定建設工事共同企業体)の構成員として工事に携わることになったからです。

復元工事を行うにあたって工事も大切ですが、私どもはその歴史を知ることも施工業者として必要と思い、沢山の協力をもらい御楼門の事を調べる事にしました。

1. 御楼門(ごろうもん)って?

鹿児島城(鶴丸城)本丸の大手門が御楼門であります。
その特徴は、3つ
① 城壁などとは独立した建物であったことから御楼門と呼ばれていました。
② 北側(磯庭園側)に向かって2階建ての御兵具所(多聞櫓)が併設。
③ 南側(照国神社側)には隅櫓
いかにも武の国・薩摩を象徴する、たたずまいで、城山を背景に建つ姿は薩摩藩のシンボルの一つであったと考えられています。

2. 御楼門(ごろうもん)の概要

明治初期に撮影されたさえる写真史料から御楼門建築の全体像が明らかになっています。
それをまとめたのが、【公益社団法人鹿児島県建築士会】の方々です。
形式:二重二層の武家門で両脇にはくぐり戸付き
2階の屋根は本瓦葺きの入り母屋、1階の屋根は四方葺き降ろし
2階正面(国道10号線側)には格子窓を出し、
2階外壁仕上げの上部は漆喰塗り、下部は芋目地のなまこ壁
御楼門の規模については、現地に載っている礎石遺構の実測結果から主柱、脇柱、寄掛柱の大きさや高さが判明しています。
幅:約24メートル 高さ:約20メートル
特に、主柱の幅3尺(約90㎝)は熊本城の南大手門や佐賀城の鯱の門をはるかに凌駕し、二条城東大手門に迫る大きさであたったとされています。

鹿児島城(鶴丸城)

鶴丸城は、天守閣を持たない平屋(屋形)造りで、本丸と二の丸だけと、77万石の薩摩藩としては規模が小さな本城でもありますが、背後の自然の要塞として「城山」(上山城)が控えており、有事の際は詰めの城・天守替わりの見張り台として活用していたそうです。
だだし、薩摩藩は「外城制」(とじょうせい)と言う、全国でも例の無い体制を整えて領土内各地に山の上に城を築き、主要地域には関所を置き、薩摩藩の領土内全体で守りを固めていました。
なんとその数113城ともいわれています。
しかも、1615年には一国一城令が出ましたが、薩摩は例外として支城が認められていました。

3. 御楼門(ごろうもん)は、いつごろ、誰が建てたのか?

1601年に建築を開始して1604年には完成したと言われています。
島津家18代当主 薩摩藩初代藩主 島津忠恒(後の家久)によって建設されました。

なぜそのころに建築することになったのか?

1600年の関ケ原の戦いにて島津義弘(父)は徳川家康に味方しようとしますが、伏見城の戦い(前哨戦)でやむなく石田三成に味方し、本戦でも西軍に属していたため島津家は存亡の危機を迎えていました。
関ケ原の戦いの他にも内輪もめを起こしており、島津家は大変な時期だったようです。
その問題を全て解決したのが島津忠恒(家久)で
この時、島津家久(忠恒)は島津家当主・島津義久に代わって、徳川家康に謝罪のために上洛し交渉をしました。
その結果、島津家久(忠恒)は1602年には本領(薩摩所有地)を安堵(認められ)され、薩摩の内城にもどると、父・叔父から家督を譲られて、初代の薩摩藩主となり、1606年には徳川家康より偏諱(へんき)をうけ、島津忠恒から島津家久と名乗りました。
こちらが、初代薩摩藩主の誕生になります。
徳川家康から殺されるかもしれないのに父親と叔父の身代わりとして謝罪を行った(徳川家と明の貿易を知略的に妨害していた事が関係しているとも言われています。)
その時に、徳川家康から攻め入られるのを恐れて御楼門を建築したとも言われています。
島津家久は、藩主になってからも1609年琉球に出兵し占領して不要国とし、1913年には、奄美群島を琉球に割譲させ、代官や奉行所などを置き、薩摩藩の直陣地とし1617年には、将軍 徳川秀忠から松平の名字(苗字とは違い、重臣の証)があたえられ、薩摩主に任官されました。
内容が長くなりましたが、薩摩初代藩主 島津家久の紹介と鶴丸城・御楼門ができた理由になります。

御楼門はいつなくなったのか?

色々と調べていると1873年(明治6年)鶴丸城と御楼門は焼失したと言われてますが、実はその前に2回も作りなおされていました。
最初は、1696年鹿児島大火にて本丸と御楼門が焼失
その後、1707年本丸再建工事完了
1810年には御楼門前の橋を木板から石へ架け替えを行い
1844年には2回目の御楼門建て替えが行われました。
鹿児島は南国にあたり湿度やシロアリの被害にて改修や建て替えが行われたといわれています。

御楼門(ごろうもん)・御角櫓(おすみやぐら)の復元計画

これまで、御楼門については観光振興の面から復元したらどうかとうい意見や、完全復元でなければ意味がないとするもの、歴史的に意義があるとする、などさまざまな意見があったそうですが、話や意見が何度となくでるなかで頓挫していたそうです。
そのような中。平成25年4月に、鹿児島経済同友会を中心とする御楼門復元検討委員会から、経済界や個人による募金などを大きな財源とる民間主導による復元計画が提言がなされ、その後発足した鶴丸城御楼門復元実行委員会が、平成25年12月以降、企業や個人に対して寄付金の募集を行っていき平成26年7月には寄付金の目標額4億5千万円をこえたそうです。
民間が主導する新たな官民連携のモデルの一つであり、また、歴史・文化・建築技術の継承などのほか、新たな環境拠点と鹿児島の新しいシンボルとなる事でしょう。
平成27年2月には、民間が主導する官民連携事業として「鶴丸城御楼門建設協議会」が設立されました。
民間が主導する新たな公共事業は、地域住民の結束が強く必ず成功することでしょう!

ケヤキの恩返し

御楼門復元計画している鹿児島県に対して、岐阜県から御楼門の復元にケヤキの木材提供をうけました。
その理由としは、濃尾平野を流れる木曽三川の洪水を防ぐため、江戸幕府の命を受けた薩摩藩が1754年から実施した治水工事『宝暦治水』を縁に岐阜、鹿児島両県は1971年に姉妹県同盟をむすんでいます。
岐阜県は御楼門復元工事を受け2015年にケヤキ贈呈のプロジェクトを発足さました。
樹齢300年を超える、幹回り4メートル、長さ約8メートルにもなるケヤキ材の提供をうけました。
岐阜県の古田知事は「宝暦のご恩に応えようと計画を進めてきた」、鹿児島県の三反園知事は、「先人の築いた絆がこうして続いていることに感謝したい」と述べており、250年もの時を経て恩返しをうけ、この事をしった時は心がほっこりしました。

復元施工業者

工事名 :鶴丸城御楼門建設工事
工事場所:鹿児島市城山5番1、5番8(県歴史資料センター黎明館敷地)
工事期間:平成29年9月28日~平成32年3月31日
構造・規模:木造2階建て(二重二階)、延床面積247.38平方メートル
高さ18.014メートル、桁行19.695メートル、梁間7.878メートル
鯱までの高さ19.95メートル
仕様木材:国産ケヤキ材・県内産マツ・スギ・ヒノキ・その他国産材
契約業者:江藤・丸久・宇都特定建設工事共同企業隊体(JV)
・株式会社江藤建設工業(鹿児島市)
丸久建設株式会社(鹿児島市)
・株式会社宇都組(薩摩川内市)
上記JVに対する審査会での評価では、県内外での社寺地等の伝統的木造建造物の施工実績があり、木工事等の下請業者についても、国宝や重要文化財などの施工実績など経験豊富な業者が下請けとなっており、施工能力は十分であるなどと評価をいただきました。

最後に、

来年2018年(平成30年)は、明治維新150周年


そして大河ドラマ「西郷どん」と歴史的に節目の時期になってきました。
そして、2020年は、56年ぶりとなる東京オリンピックと
鹿児島では、48年ぶりとなる「燃ゆる感動かごしま国体」の開催が決定しています。
鹿児島では、明治維新150周年をきに大きく確変していきます。

今の日本の礎に鹿児島が貢献し事は皆さましているでしょう、その気持ちをもって今の不況を振り払って、日本の南から新風を巻き起こし盛り上げてきたいです。

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